第6回 福永洋一記念

  • 福永洋一記念 とは
  •  JRAで多大なる功績をのこした福永洋一氏をたたえ、2010年5月10日に創設された。洋一氏は高知出身であり、少年時代には高知競馬場で過ごすこともあったという縁から、息子の福永祐一騎手が提案したことがきっかけである。第一回から毎回、洋一氏は高知競馬場を訪れ、祐一騎手とともにプレゼンターをつとめている。
  • 福永洋一記念 とは

  •  福永洋一氏は1948年、高知県高知市に生まれた。長兄・次兄・に加え、三男も騎手になったことから、自身も騎手を志し、1964年に騎手課程第15期生として馬事公苑に入所した。同期には岡部幸雄氏、柴田政人氏(現調教師)らがおり、福永氏をはじめとした15期生は「花の15期生」と称された。

     1968年、武田文吾厩舎の所属騎手としてデビュー、14勝を挙げて関西放送記者賞を受賞し才能の片鱗を見せた。3年目には86勝を挙げて、弱冠20歳にして全国リーディングを獲得。この年にはタニノモスボローの京都4歳特別で初重賞も手にしている。

     1971年の菊花賞では距離が不安視されていたニホンピロムーテーで初のビッグタイトルを得て、その手腕が絶賛された。その翌年にもヤマニンウエーブで天皇賞(秋)を制している。

     1977年の皐月賞は、福永氏の代表的な騎乗といわれる。騎乗馬は8番人気のハードバージ。最後の直線、内から抜けたアローバンガードのさらに内を突いて勝利を手にした騎乗は、劇作家の武市好古に「第37回皐月賞は、福永洋一が書き上げた、2分05秒1の傑作である」と讃えられた。
  • 天才と呼ばれた男 福永洋一

  • 父 福永洋一
  • 実況を担当した長岡一也氏の証言
    『放送席から見た“1977年皐月賞”』

     まるでマジックを見ているようなそのシーンは、今でも鮮やかによみがえる。勝つための知略を備えているというのではない。変幻自在なと言っても言い足りない。それは、本能がもたらす戦う姿であったと思う。
  •  天才の名をほしいままにしていた福永洋一の真骨頂を発揮したレースのひとつと誰しもが認めたこの皐月賞は、ヒシスピード、リュウキコウと早くから頭角をあらわしていた2頭がスプリングSで敗戦を喫し、弥生賞で1、2着したラッキールーラ、カネミノブが加わって混戦模様。これに、毎日杯を勝ったばかりのハードバージがテン乗りの福永洋一でこれを追う形勢だった。

     巨躯のラッキールーラの逃げをめぐって次々とめまぐるしく各馬が迫る直線、ハードバージは内から馬場の中央に出て進路を探り、馬群をぬって上がってきて、最後は思い切って内にめぐり込み、あっという間に先頭に立っていたのだった。勝負にいって運動神経が反射的に動き、閃光が走ったような勝利に見えたのだった。
  • 父 福永洋一
  •  現役時代の父親の話は、母親や周りの人が教えてくれた。みんなが口をそろえて言うのは「あいつは天才だった」ということ。追い込み馬をいきなり逃げさせて勝ってみたり、思いもよらない乗り方をするジョッキーだったと、みんながみんな、口をそろえて言った。「ホンマの天才は洋一だけや」と、いつも聞かされていた。

     年配の厩務員さんのなかには、「お前のオヤジにはよう乗ってもらったんや」という方もいて、「ありがとうございます。親子二代でお世話になります」と挨拶をすると、みなさん「うれしいわぁ」と相好を崩した。
  • 父 福永洋一

  • 祐一が分析する 福永洋一の騎乗
  •  先週のコラムにも書いたが、つい先日、初めてじっくりと父親のレース映像を見た。70分くらいの映像だったけれど、そのなかにはたくさんのレース映像が入っていて、それらをひとつひとつコマ送りで見た率直な感想は──。

    「あの時代にあれをやっていたら、そりゃあ勝つわ」という一言に尽きる。初めて父親のすごさがわかったし、9年連続のリーディングも納得だった。

     今、自分がコーチを付けて、何年もかけて会得しようとしていることを、40年前の父親が、おそらく自分の感覚だけでやっていた。
  • 祐一が分析する 福永洋一の騎乗

  • 親友・柴田政人調教師が語る 福永洋一
  •  かれこれ50年くらい前の話になるけど、洋一とは馬事公苑時代からの親友でね。最初から「こいつは柔らかいなぁ」と思って見ていたよ。手首の使い方とか、馬への合図だとか、あいつは最初から巧かった。お兄さんの二三雄さんや尚武さんもすごい騎手でね。地方の連中は、洋一より船橋で騎手をやっていた尚武さんのほうが巧かったっていうほど。高知競馬場の近くで育ったというから、そういう環境のおかげなのか、あるいは生まれ持った資質なのか、あの兄弟はみんないいものを持っていたんだろうね。

     ただし、野球は下手くそだったよ。
  • 親友・柴田政人調教師が語る 福永洋一